ナキヲのセカイ

光とことばが織りなす世界

私が写真について考えたこと2020版

 写真を撮り始めて丸3年経った。

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 はじめはカメラ任せで表現を意識する余裕がなく、ただただファインダーを覗いてシャッターを切るのが楽しかった。現像のげの字も知らず、当時使用していたMacでレタッチの真似事をして喜んでいた。

 2年目になって慣れてくると、手探りながらも構図や光を意識し始めた。まだ写真の可能性を知らず、ほかの人の作品など眼中になかった。自分の撮りたいものを撮りたいように撮っていた。否、撮っていると思っていた。RAW現像にも手を出したが、右も左もわからず挫折した。

 今年に入って、初めて写真の参考書を購入し、勉強を始めた。SNSで情報も集め、諸先生、諸先輩方の作例を吸収した。好きなところは模倣し、自分の作品に活かした。経験上、模倣が上達への最大の近道であると知っていたからだ。これは真理であろう。昔の偉人たちも似たようなことをいっている。

 私の写真技術は今年1年で大きく成長したように思う。そして、1年の間に作風が大きく変化した。これには、私の心理状態や写真についての考え方が大きく関わっている。

 

 私は何故写真を撮るのか。

 

 簡単に結論を言ってしまうと、自分を表現したいからだ。

 自分の中に蠢くもの、憤る感情、迸る思考、流れ出る情感。そういったものを表現したい。いわばアイデンティティの一種なのだろう。私の自己承認、自己認識のうちに写真を撮る、ということが含まれているのかもしれない。

 それだけなら、写真ではなくてもよかったかもしれない。絵でも、音楽でも、彫刻でもよかったかもしれない。なぜ写真なのか。

私は自分の死生観が関係していると考えている。

 死生観。

死ぬことと生きること。時間を消費すること。人との関係を織りなすもの。人生。人の生。

 私は、頻繁にではないにせよ人が死ぬのをみてきた。時間が残された人の傷をいやすのも、みてきた。

すべて時間だった。時がくれば人は逝き、時がたてば傷は癒える。時間は無機質な中にある種の有機的なものを含んでいるとおもう。時間を体感するのが人間だからだろう。時のながれが私とあなたとでは違うように、主観に基づいたものだからだろう。

 その無機(時間そのものは無機である)と有機(人)との関係がちょうど写真と同じなのだ。

 無機物である写真機が有機的なわれわれの情感、情動を写す。

絵はこうはいかない。絵師という人間をとおして我々は情動をうけとる。いわば有機有機の関係だ。音楽も同じだろう。

 写真の、光を記録する、という作業のみが有機と無機の融合を可能にするのである。

 

 以上が私が今年至った写真についての結論である。発展の余地はあるが、1年ではこれが精いっぱいであった。

 

 

 

 動画に関してだが、動画はそのものに時間が発生するので複雑になる。いずれ気が向いたら執筆する。